伊達政宗特集|まほろばの里たかはた 歴史探訪

歴史探訪Historic exploration

奥州の雄藩としての地位を築きあげた伊達家。その歴史を紐解くと、まほろばの里「高畠」に出逢うことができます。
建久3年(1192)、鎌倉幕府誕生とともに、置賜の地は長井氏によって支配されていました。しかし、天授6年(1380)、伊達家八代当主 宗遠が長井氏を滅ぼし、以降14代 稙宗に至る162年間、屋代(高畑)が伊達家支配の拠点とされました。
悠久の時の流れを経た今、ここ高畠には、基礎をつくりあげた猛者達の足跡を伝える、史跡の数々に触れることができます。

伊達史跡探訪マップ

伊達氏ゆかりの史跡の地図

高畠地区TAKAHATA Area

安久津八幡神社あくつはちまんじんじゃ

安久津八幡神社

高畠町のシンボルである安久津八幡宮は、永承6年(1045)と寛治元年(1087)、源義家が安倍一族追討の折に陣を敷き、その際に鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祀ったと伝えられています。

明応9年(1500)13代尚宗によって社殿造成、天文5年(1536)14代稙宗は本殿寄進を行い、17代政宗により社殿修理されるなど、東の八幡として伊達氏より手厚く保護されてきました。

塩森館址しおのもりだてし

塩森館址

塩森館は高畠の他の山城に見られない戦略的な構造上の特徴があります。敵に攻められた際、いかにして時を稼ぎ館主を脱出させるかを第一義とした3段構えの防御を備えており、現在でも土塁や堀、的場と称する小丘を伺うことができます。

高畑城址 / 屋代城址・鐘ヶ城址たかばたけじょうし/やしろじょうし・かねがじょうし

高畑城址 / 屋代城址・鐘ヶ城址

承安年間(1171〜)藤原秀衡のいとこ桶瓜五郎季衡の築城と伝えられている。東西約300m、南北約200mの西側が半円形で形状がつり鐘に似ているため、別名鐘ヶ城と呼ばれていました。天授6年(1380)長井氏を 滅ぼした伊達宗遠と9代政宗が置賜の本拠として修築したと伝えられています。伊達氏が本拠地を米沢城(長井氏の居城)ではなく高畠に定めた理由は、高畠が伊達氏の居城であった赤館城(福島県桑折町)に近く、二井宿 峠を控えた要害の地でもあり、軍事・政治の両面に適していたためと思われます。

館の越館址たてのこしだてし

noimage

屋代川に迫る河岸段丘上にあります。近辺には神領安久津八幡を支える神田や地頭領主在家集落も多かったと推測されます。

「伊達家臣録」には「八幡総裁片倉小十郎の館跡あり」とあり、片倉小十郎の居城と伝えられています。段丘の高さは5m程、館跡は200m四方(約4町歩)です。

波紋

二井宿地区NIJYUKU Area

屋代館址 / 新宿柵やしろだてし / にいじゅくさく

屋代館址 / 新宿柵

屋代館は大滝不動尊側の急峻な斜面の頂上部に5つの郭が連続する連郭式縄張りの山城です。その規模は東西に約300m、南北120mで、5つの郭もそれぞれが曲げ郭に囲まれた円郭式縄張りとなっています。 屋代館は置賜郡を背にし宮城県湯原側に開けた縄張りから置賜郡に入る敵を想定した館と思われます。湯原側から急峻な縦堀を登ると左右の郭と正面の郭に包み込まれるようになっており、弓矢の的にされることが容易に 想像でき、戦国の城を実感できる空間です。

志田館址しだだてし

志田館址

志田館は出羽国と陸奥国の国境にあります。屋代川をさかのぼり上山楢下を経て、最上山形に至る米沢からの官道筋にあったため、歴史的にも文化的にも重要な位置を占めていました。 東西南北がほぼ見渡せる絶好の地に構築されていました。

天正2年(1574)16代伊達輝宗と最上義光の合戦の際、輝宗はここに陣を敷き(新宿の対陣)、楢下城、畑谷城、高楯を攻め、中山城に陣を移して義光と和睦しています。

伊達の無理境 / 峠の一本杉だてのむりさかい / とうげのいっぽんすぎ

伊達の無理境 / 峠の一本杉

関ケ原戦後、新たな上杉領屋代郷と伊達領湯原との境を決める際に、政宗は稜線で決めず300mほど下がった沢の部分を境界としました。 沢が境界となっている所は今でも全国でここだけであり、この境は政宗が無理やり下げて決めたとの意味で、「伊達の無理境」と呼ばれています。県境にある樹齢400年以上の杉は<御境目の大杉><峠の一本杉>とも呼ばれ、藩境の目印となっていました。

玉ノ木原古戦場跡たまのきはらこせんじょうあと

玉ノ木原古戦場跡

慶長5年(1600)9月25日、伊達政宗は茂庭綱元に上杉の領地であった湯原城を攻略させました。湯原の城兵は戦うことなく伊達軍に下り、玉ノ木原で上杉軍と戦い、これを破ったといいます。 家康は関ケ原戦後、屋代郷湯原村を伊達の領地として認めています。ここは9代政宗が天授6年(1380)置賜進攻の際に陣を敷いたといわれている場所でもあります。

静田橋古戦場跡 / 新宿城合戦跡しずたばしこせんじょうあと / にいじゅくじょうかっせんあと

玉ノ木原古戦場跡

慶長5年(1600)、玉ノ木原の戦いで勝利した伊達軍は追撃し、新宿の静田橋で戦いました。新宿には高畑城からの援軍もあって優勢となり、劣勢の伊達軍は湯原へと兵を納めています。 静田橋はこの戦で一番槍を上げた春日元忠の家臣、静田彦兵衛の名をとってつけられたと伝わっています。

二井宿峠 / 古道にいじゅくとうげ / こどう

玉ノ木原古戦場跡

二井宿峠は山形県で最も古くから開けた峠道、古代からの歴史が凝縮している場所です。天授6年(1380)9代政宗は父宗遠とともに、山形県置賜郡の長井氏攻略のため進軍した際、 霧の二井宿峠で「山家霧」・「山家雪」の和歌を詠んでいます。17代政宗は、秀吉の命によりこの峠を越え、故郷 山形県置賜郡を後にして宮城県岩出山へと移っていきました。

波紋

屋代地区YASHIRO Area

野手倉 伊達家の墓 / 伊達政宗(儀山)・正室紀氏の墓のでくら だてけのはか / だてまさむね(ぎざん)・せいしつきしのはか

伊達 宗遠

明治37年に発見され、同年9月伊達家により五百年祭が執行されました。9代政宗は、伊達氏の領国範囲を大幅に拡大し、伊達家の中興の祖と言われています。また政宗は応永4年(1397)に上洛、将軍足利義満に謁見し、将軍直属の京都扶持衆ともなっています。
将軍と敵対する鎌倉公方の大軍と三度に渡り合戦、また和歌の分野でも2首が「新後拾遺和歌集」に勅撰収載されるなど知勇兼備の名将として天下に知られた存在でありました。応永12年(1405)9月、53歳で死去。 儀山政宗と正室紀氏の墓は他に資福寺跡にもある。政宗の死にあって、4代将軍足利義持公により紺紙金泥の法華経に添えて弔歌2首が贈られています。

浜田館址 / 一本柳館址はまだてし / いっぽんやなぎだてし

伊達 宗遠

伊達氏の宿老、屋代郷惣成敗職浜田伊豆守、大和守の居館。浜田伊豆は、置賜攻略の時代より伊達の家臣として代々奉公した武将です。浜田館は伊達氏による置賜攻略後の本拠としての高畑城と結ぶ重要な位置にありました。
15代浜田伊豆景隆は、政宗に従軍した宮崎城合戦の折、城中からの鉄砲で討死しました。この時着用していた血染めの鎧下着が現在も仙台市博物館に保管されています。
高畠町出身の童話作家、浜田広介は一族の末裔です。

東光寺跡とうこうじあと

noimage

10代氏宗が創設した父儀山政宗の菩提寺。当初、高畠町根岸地内(現住所:山越東光地)にあったといわれているが、後に二井宿峠を越えた東光寺沢に移され、江戸時代初期に宮城県七ヶ宿湯源に移りました。
鹿苑山東光寺の山号である鹿苑山は、儀山政宗の正室紀氏(蘭庭禅尼)が将軍義満の母の妹であり、叔母であることから、将軍と政宗は特に親しく、禅尼伝によれば山号は義満の命ずるところであったといいます。

竹森館址たけのもりだてし

伊達 宗遠

居館、後楯(竹森山)で構成されています。山の北側は湿地帯で南方は亀岡館・戸塚山館が遠望できます。一本柳館、熊坂館等と応じ、統治上の要をなしたと考えられています。
後楯は標高281.5m、東西に450m、南北250m、地表からの高さ70mの小さな盆地上の独立丘陵にあり、南側に居館が続きます。
明応3年(1494)屋代城(高畑城)の伊達稙宗が、館内に在った父尚宗を不意に襲った(竹森の合戦)、尚宗はここを逃れ、さらに稙宗との合戦となります。居館は現在、明治15年創業の長谷川製紙工場跡地になっています。

波紋

糠野目地区NUKANOME Area

資福寺跡しふくじあと

伊達 宗遠

資福寺は、弘安年中(1278~87)長井氏3代時秀が、領内東西交流の中心である夏刈の地に、鎌倉建長寺の僧紹規を招じて建てた寺です。この地に伊達氏が夏刈城を築き、資福寺を帰依寺、学問寺として保護しました。
特に輝宗は三願の礼を尽くして虎哉宗乙を迎え、政宗の教育を依頼しました。虎哉は徹底した帝王学を教え政宗を育てあげました。資福寺は中世における東北有数の名刹であり、遺構そのものが二重の堀を巡らした城館址です。
西側には大きな六面憧がありこれはかつて寺の正門前にあったものである。

伊達家の墓所だてけのぼしょ

伊達 宗遠

資福寺跡には伊達家の墓所があり、かつて虎哉和尚を招聘した政宗の父16代伊達輝宗の墓があります。輝宗は二本松城主畠山義継に拉致され無残な死を遂げるが、福島慈徳寺で荼毘に付し、資福寺で虎哉和尚の下に葬儀が執り行われました。
傍らには殉死した遠藤基信の墓があり、南側には儀山政宗、正室紀氏の墓もあります。儀山政宗夫妻の墓は後年、野手倉より分骨されたもののようです。
政宗は48歳時に越後高田城天下普請を行い、その帰路に父輝宗が眠る資福寺跡に立ち寄っています。

政宗館址 / 夏刈館址まさむねだてし / なつがりだてし

伊達 宗遠

梵天丸は資福寺で、幼少から元服するまでさまざまなことを学びました。夏刈資福寺跡の東側、熊野神社との間あたりに政宗館があり、そこに住まい、資福寺に通ったものと思われます。
政宗館は南西は松川、北は和田川にて、東は右の土手城にて四方共に堅き名城なりと伝わっています。

熊野神社(夏刈)くまのじんじゃ

伊達 宗遠

伊達家では代々熊野神社を崇拝し各館の近くに配しています。明徳元年(1390)9代政宗は社殿修復料、祭祀料を寄進したと伝わっています。
当社は入生田と福沢の熊野神社とともに熊野三権現と称され、祈雨祈晴の神事が行われていました。

松川古戦場跡(明応の役)まつかわこせんじょうあと(めいおうのえき)

noimage

竹森合戦に続く、父13代尚宗と嫡男稙宗が戦った古戦場。ここでの戦は稙宗が勝利し、敗れた尚宗は芦名氏を頼って会津に逃れます。
尚宗は芦名氏の助力を得ると屋代城の稙宗を攻め、勝利しました。敗れた稙宗は梁川城へと逃れました。この一連の戦を明応の役といいます。

波紋

和田地区WADA Area

高房神社 / 石鳥居たかふさじんじゃ / いしとりい

伊達 宗遠

この鳥居の一番の特徴は笠木および鳥木が一石からなり、節目がなく、また島木の両端がわずかながら斜めに切られ緩やかな曲線を帯びていることです。 左柱に「天文戊戌9月18日(1538)」の刻銘があるので、室町末期・伊達氏統治時代の建設である事がわかります。
紀年銘のある鳥居は珍しく、大変貴重な建造物です(県指定文化財)。また、敷地内には大永四年(1524)製作の納経塔が存在します。

館ヶ崎館址たてがさきたてし

伊達 宗遠

山頂(288m)に主郭と思われる曲輪があり、帯曲輪、畝状堅堀、土塁などが配置してあります。山城としてはかなり複雑な構造で、和田川も含めると格好の自然の要害となっています。
主郭からは長手館が遠望でき、のろしの連絡ができたと思われます。

波紋

亀岡地区KAMEOKA Area

亀岡文殊かめおかもんじゅ

伊達 宗遠

亀岡文殊は日本三文殊に数えられ、大同2年(807)徳一上人によって開かれました。願望成就、智恵の文殊として受験シーズンなどには、全国から多くの参拝客で賑わいをみせます。
独眼竜政宗誕生に際し、母義姫は、亀岡文殊堂の長海上人に湯殿山への男子誕生祈願を依頼、上人は祈願の証に幣束を持ち帰り、義姫の寝所の屋根に安置させました。すると義姫の夢枕に瑞夢が現れ、義姫は懐妊、政宗の誕生となりました。
幣束は「梵天」とも呼び、政宗の幼名「梵天丸」はこれに因んでいます。政宗は秀吉の命により、宮城県岩出山に国替えとなるが、その際に資福寺の鐘を亀岡文殊に寄進しています。

亀岡館址 / 館の山夏館西館址かめおかたてし / たてのやまなつだてにしだてし

伊達 宗遠

亀岡館は、文殊山から張り出した南西丘陵の末端部、通称「館の山」にあります。文殊山の方向となる尾根には堀切を配し、山頂部を帯曲輪で囲み、不正方形の主郭を形成しています。
この館の役割は、米沢城・高畑城への鐘、のろしの中継点などではないかと考えられています。

入生田館址 / 新館屋敷いりゅうだだてし / にだてやしき

noimage

伊達諸将の居館。防御上の特別な構えは見えません。入生田元康が寛政4年(1463)住し、5代後天正19年伊達氏に追随し、岩出山梁川城に移ったと伝えられています。
屋敷は4反程、北東と南西にやや膨らんで僅かながら水路が残っており、明治初年まで堀跡がありました。南方に百間四方の家臣集落「藤吾在家」、北西の松川べりに「夏分」、伊達氏逗留の地には「御殿」という地名が残っています。

波紋

米沢・川西・南陽地区YONEZAAW KAWANISHI NANYO Area

米沢城址(米沢市)よねざわじょうし(よねざわし)

伊達 宗遠

暦仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられています。康暦2年(1380)伊達氏8代宗遠(むねとお)と9代政宗が、長井氏8代広房を滅ぼして長井庄を領しました。
15代晴宗は天文17年(1548)米沢城に移り、以後伊達氏の本城となっていましたが、最近米沢市によって調査が進み、独眼竜政宗が大きく活躍した拠点の米沢城は舘山城との見方が強まってきています。

舘山城址(米沢市)たてやまじょうし(よねざわし)

伊達 宗遠

大樽川と小樽川の自然の要害に挟まれた丘陵を、縦堀と土塁等で企画した全長約300mの山城。全体を土塁と堀切、縦堀で三箇所の曲輪を配置しています。
平地には北館と東館の武家屋敷を配置し、大樽川の対岸に城下町を展開する構造となっています。
舘山城は古来より伊達氏の居城、軍事拠点の中核にあったと伝えられていたが、米沢市により最近調査が進み、独眼竜政宗が大きく活躍した拠点の米沢城は舘山城との見方が強まってきています。

成島八幡宮(米沢市)なるしまはちまんぐう(よねざわし)

伊達 宗遠

米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。古くから置賜郡成島荘の鎮守として崇敬を集め、長井氏、伊達氏、上杉氏といった歴代領主によって改築・修理が行われてきました。
伊達政宗(17代)は八幡神社への信仰が篤く、米沢から岩出山へ移る際、この成島八幡宮を分霊し岩出山城内に祀っています。
後の仙台開府の時に総鎮守として大崎八幡宮を創建し大崎地方にあった大崎八幡宮と米沢から分霊してきた成島八幡宮を合祀しました。現在、大崎八幡宮社殿は国宝に指定されています。

原田城址(川西町)はらだじょうし(かわにしまち)

伊達 宗遠

伊達家宿老原田氏の居城。平山城で三方が崖に囲まれ、規模は東西350m・南北100m、大手は南側、西が本丸、東が二の丸で、それぞれが空堀で区切られています。
伊達家の岩出山移封まで、米沢北郊の戦術的支城の役割を担っていました。最後の城主、原田左馬介宗時は18歳で家督を継ぎ、伊達政宗の軍事において顕著な戦功を挙げました。

東正寺 / 東昌寺(南陽市)とうしょうじ / とうしょうじ(なんようし)

伊達 宗遠

臨済宗東昌寺は伊達五山の一の名刹。稙宗の13男大有康甫和尚(輝宗の伯父)が住職の時に、奥州に来ていた京都大徳寺の僧で秀才の誉高い虎哉宗乙が5年間寓居しました。
政宗が誕生すると、輝宗は三願の礼を尽くして虎哉を資福寺に迎え、政宗の教育を託しました。天正19年(1591)、東昌寺と康甫和尚は政宗と共に岩出山に移り、その後仙台へと移りました。
仙台市東昌寺では永徳3年(1383)、伊達氏8代宗遠に従い福島県桑折から置賜郡長井荘米沢郷夏刈村に移ったとされているが、現在、東正寺は南陽市赤湯にあり、曹洞宗の寺院となっている。

波紋