伊達政宗特集|蘇る戦国絵巻 史跡探訪

史跡探訪Historic site exploration

奥州の雄藩としての地位を築きあげた伊達家。その歴史を紐解くと、まほろばの里「高畠」に出逢うことができます。
建久3年(1192)、鎌倉幕府誕生とともに、置賜の地は長井氏によって支配されていました。しかし、天授6年(1380)、伊達家八代当主 宗遠が長井氏を滅ぼし、以降14代 稙宗に至る162年間、屋代(高畑)が伊達家支配の拠点とされました。
悠久の時の流れを経た今、ここ高畠には、基礎をつくりあげた猛者達の足跡を伝える、史跡の数々に触れることができます。

伊達政宗17代 貞山

「独眼竜」の異名で知られる、伊達政宗(17代貞山)。5歳の時右眼を疱瘡で失いましたが、乳母の喜多、守役の片倉小十郎、師匠である虎哉和尚たちのもとで成長し、18歳で家督を継ぎました。

政宗時代の伊達家の勢力は、稙宗・晴宗をはるかに超え、南奥州は統一へと向かったのです。天正19年(1591)、政宗25歳の時、秀吉の命令により、置賜の地を後に、岩出山(宮城県)へ移封されました。独眼竜政宗の誕生に際して、母義姫が、亀岡文殊堂の長海法師を通じて、湯殿山に出向き護摩を行い政宗が誕生した、という伝説が残されています。

亀岡文殊堂は、日本三文殊に数えられ、大同2年(807)、徳一上人によって開かれました。願望成就、智恵の文殊として受験シーズンなどには、全国から多くの参拝客で賑わいます。

亀岡文殊堂

亀岡文殊堂

伊達政宗(貞山)略年表(米沢時代)

永禄10年(1567年) 政宗1歳 出羽国米沢城に生まれる。幼名梵天丸。
元亀2年(1571年) 政宗5歳 疱瘡(天然痘)に罹り右眼を失明する。
元亀3年(1572年) 政宗6歳 伊達家の学問寺である資福寺にて臨済宗の虎哉宗乙禅師による教育が始められる。
天正3年(1575年) 政宗9歳 片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。
天正5年(1577年) 政宗11歳 元服。藤次郎政宗と名乗る。2年後、三春城主 田村清顕の娘愛姫を正室とする。
天正9年(1581年) 政宗15歳 15歳で初陣し勝利を収める。
天正12年(1584年) 政宗18歳 18歳で家督を相続し伊達家17代を継承する。
天正13年(1585年) 政宗19歳 人取橋の合戦。人取橋(福島県安達郡本宮)にて蘆名氏、佐竹氏など3万の連合軍と戦い勝利。
天正17年(1589年) 政宗23歳 摺上原の合戦。摺上原(福島県耶麻郡猪苗代町)の戦いにて会津の蘆名義広、佐竹義宣の連合軍 と戦い勝利。奥州の覇者となる。
天正18年(1590年) 政宗24歳 小田原討伐に参陣し、豊臣秀吉に従属する。
天正19年(1591年) 政宗25歳 豊臣秀吉より、一揆扇動の嫌疑をかけられ、玉造郡岩出沢城58万石に減らされ移封される。( 後に岩出山城と改称した)
伊達家代々の本領であった伊達、長井、信夫、刈田、二本松、塩松、田村を没収され、米沢城を 引き払うこととなった。

伊達氏系譜

  1. 八代宗遠
  2. 九代政宗(儀山)
  3. 十代氏宗
  4. 十一代持宗
  5. 十二代成宗
  6. 十三代尚宗
  7. 十四代稙宗
  8. 十五代晴宗
  9. 十六代輝宗
  10. 十七代政宗(貞山)
和雲 和雲

伊達 宗遠八代

伊達 宗遠

高畑城跡

屋代(高畑)を居城に定めた宗遠は、大崎、信夫、刈田地区のほか、柴田、伊具を支配しました。また、時の権力者であった足利政権とも交流を図り、中央への貢献に務めたのです。

屋代(高畑)は、承安年間(1171〜)藤原秀衛のいとこ樋瓜五郎季衡の築城と伝えられ、形状がつり鐘に似ているため、別名を鐘ヶ城と呼ばれていました。

なぜ屋代(高畑)が拠点に?

伊達氏は、本拠地を米沢城(長井氏の居城)ではなく、高畠の地を選びました。これは、高畠が、赤館城(伊達氏の居城)に近く、二井宿峠を控えた要害の地であったことなど、軍事・政治の両面に適していたためです。

伊達 政宗九代 儀山

伊達 政宗

儀山政宗公墓所

宗遠の嫡子第九代当主 政宗は、柴田、名取、宮城などへ進出し、これにより伊達氏の領国範囲がほぼ決まりました。屋代(高畑)が名実ともに置賜の中心城となったのです。また政宗は 応永4年(1397)に上洛し、将軍 足利義満の謁見を許されました。

文武両道に優れた彼は、和歌の分野でも才能を発揮し、「新続古今集」に収められている「山家の雪」、「山家霧」は有名です。

山家の雪
中々につづら折なる道絶えて
雪に隣の近き山里
山家霧
山合の霧はさながら海に似て
波かと聞けば松風の音

応永12年(1405)9月、53歳で死去した儀山政宗の墓は野手倉と資福寺跡にあり、野手倉にあるお墓の左側には足利義満の生母の妹である正室、紀氏が眠っています。

伊達 稙宗十四代

伊達 稙宗

安久津八幡神社

14代稙宗の時代に移ると、さらに領国体制が進展し、伊達家の悲願であった陸奥国守護職の地位を得ました。また稙宗は※1「塵介集」※2「棟役日記」※3「御段銭古帳」を成立。伊達家の 基盤を固めたといえます。しかし、15代晴宗と6年間におよぶ内乱(天文の乱)を招き、家督をわたす結果に終わりました。

伊達家の父子抗争/置賜時代の伊達家では、父子の抗争が相継ぎました。12代成宗と13代尚宗、13代尚宗と14代稙宗とがあり、当時の家督相続の難しさを現しています。

高畠町のシンボルである安久津八幡宮。永承6年(1045)と寛治年間(1087)に源義家が安倍一族追討の折に陣を敷き、鎌倉八幡宮の分霊を祀ったと伝えられています。天文5年(1536)稙宗は、安久津八幡宮 の本殿寄進を行い、手厚く保護されてきました。

※1「塵介集」(じんかいしゅう):範囲をまとめるための法、規律 ※2「棟役日記」(むねやくにっき):領内百姓屋敷への徴税規則 ※3「御段銭古帳」(ごだんせんこちょう):領内田畑への徴税規則

伊達 輝宗十六代

伊達 輝宗

伊達輝宗公墓所
(資福寺跡)

幼名を彦太郎(又は総次郎)といい、弘治元年(1555)足利義輝の一字を受け、輝宗と名乗りました。思慮深い人柄であった輝宗は、当時の権力者 織田信長に奥州名物の鷹を献上するなどして、 中央とのコンタクトを密に図りました。

伊達家は、父子抗争が絶えない状況にありましたが、動乱の戦国時代のなかで、輝宗は、たくみに次世代への橋渡しを成し遂げたひとりです。働き盛りのうちに家督を政宗に譲り、みずから後見人に まわりました。

天正13年(1585)、輝宗は、畠山義継に突然拉致され、42歳で不慮の死を遂げました。資福寺跡の夏刈の他に、輝宗とその重臣 遠藤山城守基信を葬った五輪塔があります。

虎哉 和尚

虎哉 和尚

資福寺跡

資福寺の住職であった虎哉和尚は幼名を虎千代といい、住まいでの寺から聞こえる読経を全て暗謡したといわれ、仏教に強い関心を示しました。後に「心頭滅却すれば火も亦涼し」の 名文句を残した快川和尚の門をたたき、名を虎哉と改めました。虎哉和尚と資福寺との結びつきは、16代当主輝宗が政宗の師匠に招いたことに始まり、時に虎哉和尚43歳のことでした。

資福寺は、弘安年中(1278〜87)長井氏3代 時秀西規が、領内夏刈の地に、鎌倉建長寺の僧紹規を招じて建てた寺で、置賜の中心にありました。この地に伊達氏が夏刈城を築き、資福寺を帰依寺、学問寺として保護しました。

金粉 金粉 金粉 金粉

伊達氏ゆかりの史跡

伊達氏ゆかりの史跡の地図

米沢城跡米沢市

米沢城址

歴仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられ松岬城と称しました。時広は源頼朝の重臣 大江広元の次男で、奥州侵攻の軍功により文治5年(1189)長井庄地頭となり、長井氏の治世は191年に及びました。

康歴2年(1380)伊達氏8代宗遠(むねとお)が、長井氏8代広房を滅ぼして長井庄を領しました。15代晴宗が天文17年(1548)米沢城に移り伊達氏治世212年間の間、伊達氏の本城として奥州躍進への拠点なりました。

17代政宗(貞山)はこの城で生まれ、天正19年(1591)豊臣秀吉により岩出山に移封されるまでの25年間、この地で過ごしました。

成島八幡宮米沢市

成島八幡宮

米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。

古くから、置賜郡成島庄の鎮守として崇敬をあつめ、長井氏、伊達氏、上杉氏といった歴代領主によって改築・修理が行われてきました。

伊達政宗(17代)は、八幡神社への信仰が篤かったらしく、米沢から岩出山へ移る際に、この成島八幡宮を分霊し、岩出山場内に祀られました。

後に、政宗は仙台開府にあたって、総鎮守として大崎八幡宮を創建し、大崎地方にあった大崎八幡宮と米沢から分霊してきた成島八幡宮を合肥しました。現在、大崎八幡宮社殿は国宝に指定されています。

原田城跡川西町

原田城址

伊達家宿老原田氏の居城。

平山城で三方が崖に囲まれ、規模は東西350m・南北100mとされ、大手は南側、西が本丸、東が二の丸で、それぞれが空堀で区切られています。伊達家の岩出山移封まで米沢北郊の戦術的支城の役割を担いました。

最後の城主、原田左馬介宗時は18歳で家督を継ぎ、伊達政宗の軍事において顕著な戦功を挙げました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には伊達家臣団の一人として朝鮮半島へ渡ったが、間もなく病を患い、対馬で没しました。 出陣の際には馬にまたがり2m70cmという長い太刀を金の鎖を巻いて背負うなど、さすがは伊達者と言われたエピソードも残っています。

金粉 金粉 金粉 金粉