伊達 宗遠八代
高畑城跡
屋代(高畑)を居城に定めた宗遠は、大崎、信夫、刈田地区のほか、柴田、伊具を支配しました。また、時の権力者であった足利政権とも交流を図り、中央への貢献に務めたのです。
屋代(高畑)は、承安年間(1171〜)藤原秀衛のいとこ樋瓜五郎季衡の築城と伝えられ、形状がつり鐘に似ているため、別名を鐘ヶ城と呼ばれていました。
なぜ屋代(高畑)が拠点に?
伊達氏は、本拠地を米沢城(長井氏の居城)ではなく、高畠の地を選びました。これは、高畠が、赤館城(伊達氏の居城)に近く、二井宿峠を控えた要害の地であったことなど、軍事・政治の両面に適していたためです。